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(no subject)06
ドクターとカシアン



※未読でも全く問題ありませんが、『シャーロック・ホームズの思い出』の中に入ってる『黄色い顔』とゆーお話を読んでいると、してやったり感が5割増しくらいになると思います。
20~30Pくらいの短編ですので、お時間のある方は本屋さんか図書館でさくっと立ち読みしてくださると吉。なんか最近増刷されたっぽいんで、本屋さんとかいけば新潮文庫からたくさん出てると思います。



 扉を開けると、そこにはいるべきはずのひとがいなかった。
 つい何時間か前にジザベルが部屋を出て行ったときにはそこにいたのに。とはいえ、彼だって仕事があるのだから、仕方がない。
 末端のトランプである彼は忙しい。第一、第二階級の補助から自身の任務、どうでもいい雑用まで。上から「やれ」といわれたら断ることはできない。もしかしたら、死刑執行人のジザベルなんかよりも彼の方が余程忙しいかもしれない。
 ――いつからだろう。
 彼がいることがあたりまえになっていた。
 最初は顔を合わせれば嫌味の応酬をし、お互いにいがみ合ってばかりいたのに。最近ではそのやり取りに毒はない。相変わらず彼の口は悪いし、その言葉はきついけれど、むしろそれを心地良いとさえ感じている。それは、多分彼の言葉がジザベルを傷付けるためのものではないからだろう。
 いつのまにか、彼がいることがあたりまえになっていた。
 いないと、寂しささえ覚えるほどに。
 ふわっと風が吹いてカーテンを揺らした。開け放しの窓からは心地良い風が吹き込んでくる。
 風はぱらぱらと机の上に開いたままの本のページを繰り、どこかへ消えていった。
 何の本だろう。
 それは簡素な装丁で、本というより雑誌といったほうがよかった。ジザベルが部屋を出るときにはなかったものだ。ということは、当然彼のものということになる。
 ジザベルはなんとはなしにその本を手にとった。
 ――ストランド誌?
 おそらく、英国で一番読まれているであろう雑誌だ。ここ暫く手に取ることもなかったが、以前は暇潰しに読んでいた。
これがここに置いてあるということは、彼が読んでいたのだろう。
 ――読めるようになったのだろうか。
 出逢ったとき、彼は満足に読み書きができなかった。アルファベットの綴りや簡単な単語を羅列しただけの文章ならばともかく、手紙を書いたり、文献をあたったりとなるとどうしようもなかった。幼い頃から下町の貧民街で育ち、12のときにはサーカスに売られ、ろくな教育を受けてこなかったというのだから当然といえば当然だ。
 読み書きができないからといって彼の価値が損なわれることはないが、不便ではあった。任務上、手紙のやりとりをしなければならないことも、文献の中から資料を探すこともあったし、時には代筆をすることだってあったから。
 『これなら苦にならずに勉強できるでしょう』
 そういって、ジザベルが辞書と一緒に彼に一冊の本を手渡したのは暫く前のことだ。
 それはある探偵が親友の医者と共に数々の事件を解決していく推理小説で、何年も前から英国内ではベストセラーとなっているものだ。推理小説ではあるけれど、探偵と親友のやり取りで全てが進んでいくから、頭を使わなくても読めるし、一つ一つは短編でテンポも良いから、読むことにさほど時間もかからない。
 それに何より、この本で使われている言葉は綺麗だった。明確で簡単、華美ではなく美しい言葉。訛りの多い英国においてこれは珍しいことだった。仮にジザベルが家庭教師で読み書きを一から教えるのだったら、教え子の教材にはこれを選ぶと思ったほどに。
 そんなわけだから、彼にもその本を渡した。とはいえ、お互いに多忙だったから特にそれから講義のようなことをしたわけではないけれど。
 ――読めるようになったんだ。
 これを買ってあるということは読めるようになったんだろう。
 ストランド誌には、その探偵と親友の物語の続きが連載されていたはずだ。
 ――読んでくれたんだ。
 ジザベルが渡した本を。
 ただそれだけのことなのに、それがとても特別なことのように思えてくる。
 彼が辞書と闘いながら、苦労して本を読み進める姿を想像すると何だか可笑しい。可笑しいけれど――それはとても愛しいものだと思う。
 ジザベルは微笑を浮かべながら雑誌を捲る。
 やはりストランド誌にはその物語の続きがあった。
 今回もやはり探偵は親友と一緒に事件に遭遇していて(舞台をロンドンからノーバリまで移してもやっていることはあまり変わりない)。事件は二転三転しながら思いもよらない方向へと向かっていき、そして大どんでん返しの末に決着する。定石通りの物語だ。
 ただ一つ、いつもと違っていたのは、探偵がいくつか失敗をしていた。どうってことのない些細な失敗ではあったが、作中、人間離れした完全無欠な人物のように書かれることが多かったから意外だった。何とも人間くさい。
 最後に探偵が、
 『ワトスン君、これからさきもし僕が、自分の力を過信したり、事件にたいしてそれ相当の骨折りを惜しんだりするようなことがあったら、ひとこと僕の耳に『ノーバリ』とささやいてくれたまえ。そうしてくれれば僕は非常にありがたい』
 といって物語は終わる。
 読み終わって雑誌を閉じると、ジザベルは軽く溜め息をついた。
 物語の中の友情は完璧で、裏切られることはない。
 現実には有り得ない程強固で完全な絆をまざまざと見せつけられたような気がする。
 それは嫌でも義弟とその執事を彷彿とさせ、気が重くなった。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 たかが物語だ。
 現実はそうはいかない。
 あの二人だっていつかは壊れて終わるに決まっている。
 そう思い込もうと何度も自身にいいきかせればいいきかせるほど、それは現実味のない空虚な妄想に変わっていった。
 多分、何を求めているのか。本当はもうわかっている。
 ただ、認めたくないだけだ。
 認めてしまえば、それが決して手に入らないものだということも認めなければならない。
 バンっ!と、扉の開く音で我に返った。乱暴に開かれた扉はゆらゆらと揺れている。
 「あれ、ドクター?帰ってたんですかい」
 「……カシアン」
 「すみません、驚かせましたね」
 暗かったから誰もいないと思ったという。そういえば、いつのまにか日が落ちていたが、まだ灯りをつけていなかった。
 「灯り、つけますよ?」
 「……ええ」
 灯りを付けたところで沈んだ気分は浮上しなかったが、視界はさすがに良くなった。
 「こんな暗いところで何してたんですかい?」
 「別に……」
 特に何もしていない。そう答えると、呆れながらもカシアンは「あんたらしいよ」と笑ってひらひらと手を振った。その利き手のシャツの袖口には微かにだが泥がついている。
 「――……薬草園に行っていたんですか?」
 ジザベルが訊くと、「正解」と答えてカシアンは目を丸くした。
 「なんでわかるんだ?ドクター、あんたもしかして超能力者?」
 「いえ、袖口に泥が。そこに泥がつくようなことって、薬草園で薬草の収穫とかしないとありませんから」
 「そこは『愛の力で』っていって欲しいところだったな」
 「馬鹿いってるんじゃありません」
 「はいはい。失礼しました、ドクター・ジザベル・ディズレーリ」
 カシアンはさらりとそういった。全く失礼したと思っていないようだ。
 「ああ、でも、ちょっと格好良かったよ、ドクター。いきなりズバッとわかっちゃってさ。その雑誌に出てくる探偵みたいだった」
 カシアンは笑う。
 つられて、ジザベルも少しだけ笑った。
 「『初歩ですよ、初歩。ミスタ・カシアン』」
 と、英国――否、世界一有名な探偵の真似をして得意気に言ってみせる。
 ジザベルが冗談をいうなんて思っていなかったのか、カシアンは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐにそれは満面の笑みに変わった。
 「――……じゃあ、俺はあんたがサボったり何かやらかしたりしたら、あんたの耳元で『ノーバリ』っていってやるよ!」
 ――……ありがとうございます。とジザベルはいった。呆れて興味もなさそうに聞こえてくれるように願いながら。


 ずっとそこにいてくれればいい。
 近すぎず遠すぎず。
 何かあったらそう耳元でささやけるくらいの距離に。









END









※文中に一部『新潮文庫のシャーロック・ホームズの思い出』より引用した箇所がありますが、そこのところについて著作権諸々をどうこうしようという気はありませんのでご了承ください。

※厳密にいうと、この回のストランド誌が発行されたのはカインの舞台になってる年より数年前になりますので、ちょっと色々おかしいですが、そこは突っ込まない方向で。

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