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(no subject)05
ドクターとカシアン


 きゃあああああああ!

 真っ昼間の往来で悲鳴が上がった。
 この都市ではよくあることだ。しかし、よくあることが気にならないかというとそんなことはない。
 「何かあったんですかね」
 ええ……。と、ジザベルは相槌を打った。
 何事かと思って周りを見れば、野次馬達がわらわらとある方向へと流れていく。
 ジザベルはカシアンと顔を見合わせた。
 「行ってみますかい?」
 そうですね。と頷く。
 皮肉とゴシップが好きなのは英国人の共通点だ。
 二人は野次馬達の後に付いて、そのよくある異常なことを見物しにいった。

 「――ト!ピート!しっかりして!目を開けて!ピート!!」
 母親が血まみれの息子を抱いて叫んでいる。
 しばらくして人垣の向こうに見えたのはその光景だ。
 もとからさほど良い身なりとはいえない彼女は、粉塵と血に塗れて相好がつかなくなっていた。
 息子の方はまだ少年だ。10を一つか二つ超えたところだろう。あどけない顔立ちの中で輝いているはずの双眸は閉じてしまって開かない。母親の呼びかけにも応えず、揺すられてもその腕の中でぐったりとしている。
 母親が半狂乱になって必死に息子の名を呼び続ける様はある種滑稽であり、同時にとても美しいものだ。
 ジザベルはそう思った。
 「――馬車にやられたらしい」
 誰かがそう話しているのが聞こえた。
 「ひでぇな」
 「ありゃぁ、助からねぇ」
 少年の黒い髪が揺れる。
 日に焼けた肌――母親と共に沢山の苦労をしてきたのだろう。だらんと地面に垂れ下がった腕の先にはまだ小さな手がついており、年の割に節くれだった指が今は弛緩しきってだらしなく開いている。
 きっと、彼にも、夢や希望がたくさんあったに違いない。
 いつもと変わらずに訪れる明日を待ち望んでいただろう。
 全てが唐突に失われようとしている。
 彼も、彼の母親も――
 世界から、彼が消える。
 どいてください。と、ジザベルは前に居た野次馬達に声をかけ、人混みの中を掻き分けた。
 「ドクター!?」
 後ろからカシアンが素っ頓狂な声をあげたが、今はそれに構っている暇はなかった。
 人波を割ってその場につくと、ジザベルはスーツのズボンが汚れるのも構わずに彼らの脇に膝をつく。
 「あまり揺すらないでください。頭を打っているかもしれない」
 「え?」
 少年の口元に耳を寄せると、微かにだがその吐息がかかった。
 そっと首筋に触れ、指を当てる――まだ脈はある。
 「あの、」
 「私は医者です。ピート、聞こえますか?」
 返事はない。
 「カシアン、病院に運びます。救急馬車の手配を」
 「はいよ」
 「――お母さん」
 「は、はい」
 「名前を呼んであげていてください」
 そう言い、ジザベルは少年の身体を改めていく。
 上腕の裂傷が酷い。転倒した際に擦りむいたのだろう、顔も擦り傷だらけで、そのどれもが血を流している。
 馬車に跳ねられたにしては綺麗な身体だった。腕の骨が折れるくらいのことはありそうだが、幸いにも致命傷になりそうなものは外から見た分には見当たらない。馬車がぎりぎりで避けたのか、そうでなければ、この少年が馬車を避けようとしたか何かして、その拍子に転倒したのだろう。
 鞄を開き、止血帯をとりだす。
 致命傷はなかったとしても、この出血量は放っておけば危険だった。
急いで傷口を洗い、止血帯を当て、包帯を巻きつけていく。ぎゅっと固くその先を結んで固定すると、微かにだが少年の口から呻き声が漏れた。
 「ピート……!」
 「もう少しです。がんばるんですよ」
 程なくして、少年は意識を取り戻した。
 怪我の度合いこそ酷かったが、命に別状はないようだ。
 「――本当に、ありがとうございます。何とお礼を言ったらいい か……!」 
 「いえ。医者ですから」
 ジザベルはそう言ったが、母親はもう一度「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
 カシアンが呼んだ救急馬車が到着する頃には少年は大分安定しており、ジザベルに向かって「ありがとう」と小さく微笑うと、母親と共にそれに乗り込んでいった。

 ***

 「どういう風の吹き回しだい?」
 帰り道、並んで歩いているとカシアンがそう切り出した。
 「他人を助けるなんて。あんたらしくもない」
 「そうでしょうか」
 「犬猫ならわかるんだけど、人間じゃあなぁ……あんたこそ頭でも打ったんじゃねえのかい?」
 「かもしれません」
 「おい」
 「冗談です」
 応え、ジザベルは躊躇いがちにカシアンに訊いた。
 「――……いけませんか?」
 「いや。良いことだ」
 これがジザベルの変化なら嬉しい。とカシアンは言う。
 「ただ、あんまりにも突然だったからな。人間嫌いのあんたが……って思っただけだ」
 人間は嫌いだ。
 それは未だに変わっていない。
 変わったとしたら――
 「――似ていたんですよ」
 「え?」
 「あの子、君に似ていたんです」
 外見は勿論のこと、小さな身体の中にどれだけ重いものを抱えているのだろうかと考えたら、あの少年が目の前の彼と重なってみえた。
 「そうしたら、何だか放っておけなくて――」
 彼がいなくなったら。
 ある日突然、目の前から奪い去られてしまったら。
 多分、自分は正気ではいられない。
 あの母親のように、彼の亡骸に泣いて縋って――いかないで。おいていかないでくれと繰り返すのだろう。
 少し前まで、何もかもを棄ててひとりになることをあんなにも望んでいたのに。
 今、世界から彼が消えたらと考えただけでぞっとする。
 足元から全てが崩れ落ちていくように、きっと立っていることもできない。
 彼のいない世界――そんなところで生きていても仕方ない。
 「……ドクター」
 「はい?」
 「あんた、結構かわいいのな」
 「っ――!」
 カシアン!
 とジザベルは怒鳴った。
 「上司に向かって何ですか、貴方は!」
 「はいはい、以後気をつけますー」
 「カシアン!」
 石畳が二人分の足音を弾く。
 ロンドンにはいつもと変わらない夜が訪れようとしていた。










END






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