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(no subject)03
カシアンとドクター





 月のない夜だった。

 さあっと風が吹いて、耳元を通り過ぎていった。
 何とはなしにカシアンはシャツの前をかきあわせた。
 初夏にさしかかったとはいえ、この国では朝晩はかなり冷える。頬を撫でる冷たい風は心地良くはあったが、直に素肌を晒すにはまだ少し温度が低すぎた。
 ベランダに座り込んで、上を仰ぐ。
 見上げた夜空に月はない。
 美しく気高い夜の女王はその姿を隠してしまっている。
 その代わりに星々がよく見えるかといえばそんなことはない。
 重く敷き詰められた排煙が立ち込めて、夜空を覆ってしまっている。霧の都では星さえもみることはできなかった。
 カシアンは懐から煙草箱を取り出すと、そこから煙草を一本選び、口にくわえた。マッチを手にし、慣れた手つきで火を点けるとそれを煙草に寄せる。
 しばらくその感覚を楽しむと、カシアンはふぅと一息ついた。
 肺にはいれない。
 少し前に脳科学者から煙草は脳の成長の妨げになるときいてから、楽しみ方も変わった。本数もかなり減っている。もとから重度愛煙家というわけではないからそうしてもさほど困るわけではなかったが、やはりたまに口にしたときにはホッとする。本当は止めてしまえばいいのだろうが、それはできそうになかった。
 紫煙が夜空へと溶けていく。
 そのうち、あれもそこかしこに蔓延する霧と混ざり合ってその一部になるのだろうか。ありえない、馬鹿馬鹿しい考えだが、何故かそれはしっくりきた。あの霧は人の欲望の作り出したものだ。ならばこれがその一端を担うことになったっておかしくはないだろう。
 カタン、と窓ガラスが揺れた。
 音がするほど強い風だっただろうか。
 そう訝りながら後ろを振り返ると、上司がそこに立っていた。部屋着代わりの浴衣を羽織り、いつもは束ねている灰銀の髪をといて後ろに流している。
 「――……寒く、ないですか?」
 そう訊く彼の声は穏やかだ。仕事のときや、組織内で聞くような硬い響きは微塵もない。
 いつもそうだといいのに。
 そう思い、カシアンは内心で苦笑した。いつも、誰に対してもこんなものをみせられたらたまったものではない。
 「いや、俺は大丈夫――ドクターこそ、そんな薄着じゃあ風邪ひくぞ」
 「私も、大丈夫です」
 そっちにいっても?
 と、訊かれ、カシアンは直ぐに頷いた。立ち上がって、並んでベランダの手すりに寄りかかる。
 長い髪を風に遊ばせながら、彼は微笑う。
 「結構、冷たいですね」
 「だからいったろ?」
 「へいきです」
 ――それでも。
 やはり、思う。
 彼が穏やかに、安心して過ごせるようになればいいと。
 全く、人間の感情とは厄介なもので、いとも簡単に相反するものを同時に作り出す。
 だが、それも悪くない。
 誰かのしあわせを願うことも、誰かをひとりじめしたいと思うことも、久しくなかったことだ。生々しいまでの感情に身を任せることも悪くはない。その中心に彼がいるのだと思えば、むしろそれは心地良いものだった。
 「眠れないのか?」
 「――まあ」
 曖昧に彼は応える。
 以前、半分不眠症のようなものだといっていた。寝付きも悪いし、眠りも浅いと(まあ、寝起きも悪いのだが)。
 無理に眠れといったところで、余計に辛いだけだろう。第一、この時間に起きているカシアンがそういったところで説得力の欠片もない。
 「そうかい」と、呟くと、カシアンは煙草を口元に運んだ。
 瞬間、彼の表情が険しくなる。
 「――……煙草、吸っていたんですか」
 「え?ああ、まあ」
 「カシアン」
 咎めるように名前を呼ぶ。
 確か、彼は嫌煙家ではなかったはずだ。彼自身、煙草こそは吸わないが、付き合いでパイプを嗜むことくらいはしていたというのに。
 「ええと……ちゃんと、火の始末はするし、吸い殻も持ってかえって処分しますぜ?」
 何か彼の気に障るようなことでもしたのだろうか。そう考えたが、これといった心あたりはなかった。
 「それはあたりまえです」
 そんなことじゃなくて。と、彼は続けた。
 「ドクター・ゼノピアに止められているんでしょう?」
 「え?……ああ、まあ」
 誤魔化すようにカシアンが笑うと、彼は何かを言いたそうに眉根を寄せ、カシアンを睨む。
 「医者のいうことは素直に聞いておくものですよ」
 「わかってるよ」
 「なら、」
 「でも、それで大人になれるわけでもないしな」
 「――」
 それで望みが叶うなら、多分、何だってしただろう。
 本当に欲しいものはこんなものではない。
 何をしたって、大人の真似事。
 どんなに年上ぶったところで、彼を抱きしめることすらできない。
 人々の欲望を乗せた煙は、自分のものだけ連れて行ってはくれなかった。
 「――……一本だけ。これで止めるよ。火点けちゃったからもったいねえし」
 「意外と貧乏性ですね」
 「悪かったな。下町育ちをなめんなよ――……それに」
 「?」
 「……ないと、なんか口寂しくて」
 と言おうとした台詞は、最後まで発せられることはなかった。
 何故こんな近くにあの紫水晶の瞳があるのだろうか。と思った瞬間には、口を塞がれた。
 そこから先はろくに思考することもできず、口を塞いだものが彼の口唇だと理解したのも随分たってからだ。
 二度、三度と角度を変えて深く。舌先で歯列をなぞられると、反射的に背が震えた。そのまま口内に入ってきた舌を絡め、彼を受け入れる。
呼吸が苦しくなって互いに互いを解放すると、名残惜しいとでもいうかのようにつと唾液が銀の糸を引いて離れた。
 どうすることもできず、だからといって、どうもしないこともできず。
 恐る恐る、カシアンは彼を呼んだ。
 「――……ドクター?」
 「っ……おやすみなさい!」
 慌てたようにカシアンを押し返すと、彼は足早に部屋の中へと戻っていってしまった。
 カシアンはしばらく呆然と彼が去っていった方向を眺めていた。
 「――……おいおい、マジかよ」
 笑っちゃうね。
 というより、笑うしかない。
 そう腹を括ると、堪えきれないくらいの笑いがこみ上げてきた。
 カシアンは声を立て笑う。こんなふうに笑うなんて、いつ以来だろう。
 「――……ったく。最高だよ、ドクター!」
 手にしていた煙草を地面に捨てると、カシアンはそれを踵で踏んで火を消した。










END






※お酒と煙草は二十歳を過ぎてから。
こんなの書いてますが、私は未成年の喫煙を推奨しているわけではないどころか、むしろわりと嫌煙家です。

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