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(no subject)17

ドクターとカシアン。




 「カシアン」
 ジザベルは机についたまま、書き物から視線をあげることもせずに部下を呼んだ。
 「カシアン、明後日〆切の件の資料をとって下さい。後、昨日の報告書と――……」
 あれやらこれやらとジザベルは色々と(一方的に)用件を並べ立てたが、部下からは一向に返事がない。気配があるから、部屋の中にはいるんだろうに。
 聞こえなかったのだろうか。
 「カシアン?」
 もう一度そう呼びながら振り返ると、すぐ近くのソファには不機嫌な表情をした部下がいた。不満げな瞳でジザベルを睨みつけてくる。
 「カシアン、聞こえているなら返事くらいしたらどうですか」
 「――……はい」
 「カシアン」
 咎めるように呼ぶと、カシアンは「すみません」とやはり不満げにこたえた。それを更に咎めようかとも思ったが、不毛な気がしたので(この部下が反抗的なのは今に始まったことではないのだから)、ジザベルは止めた。かわりにもう一度、気を取り直すように「カシアン」と呼ぶ。
 「今言った資料を揃えて下さい。早く」
 「…………はい」
 「カシアン」
 「はいはいわかりました!わかりましたよ、ドクター!ドクター・ジザベル!!」
 「カシアン!」
 ジザベルは声を荒げると、不愉快そうに眉を寄せる。
 「敬称をつけたとはいえファースト・ネームを呼ぶなんて、仮にも上官に対して馴れ馴れしすぎるのではないですか?」
 この部下のことがどうやら自分は嫌いではないらしい――何となくそう気付いてはいたが、これ以上此方側に踏み込ませる気はジザベルにはなかった。そうすれば、きっとずるずると全てさらけ出してしまうことになる。そうならないためにも明確な線を引くことは必要だった。
 大体、彼のことだってこの数ヶ月しか知らない。そんな相手に自ら隙を与えるようなことはしたくなかった。
 カシアンは「はん」と小馬鹿にしたように哂うと、「あんたがそれをいうか?」と、呆れたように呟いた。
 「何です?」
 「名前。あんたがそんなにファースト・ネームに拘りがあるなんて知りませんでしたね」
 「別に……拘りなんてありませんけど」
 義弟と違って明確な由来があるわけではない。そもそも父がつけたのか母がつけたのか――それとも別に名付け親がいるのか、それすらもわからない名前に大した拘りなんかはないのだけれど。
 「でも、あなたは部下で私は上官です。別に尊敬しろなんていいませんけど、けじめは必要だと思いませんか?」
 「だから、ちゃんと“ドクター”ってつけただろう?」
 「カシアン」
 「ほら、あんただって」
 え?と、ジザベルは訊き返した。
 「ひとの名前は気軽に連呼しておいて、自分だけ『馴れ馴れしい』だなんてのは都合が良すぎると思いませんかね、ドクター?」
 「……」
 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。
 『ひとの名前は気軽に連呼しておいて……』
 確かに、彼の名前は“カシアン”で、彼はカシアン以外の何でもなくて――それは単純な事実なのだけれど。
 「“カシアン”って……ファースト・ネームだったんですか!?」
 「そうだよ」
 知らなかった……。と、ジザベルは呟いた。
 そういえば、“カシアン”なんて姓は他に聞いたことがない。よくよく考えれば――よくよく考えなくとも、少し頭を使えば、“カシアン”がファースト・ネームだとすぐわかる。
 カシアンはジザベルに言われた通りに資料をまとめながら、これみよがしに溜息をついた。
 「最初に渡した書類見りゃあすぐにわかるっての。まあ、あんたのことだから、俺の履歴書やら資料やらなんて全く読んでないだろうな」
 「……」
 そういえば、そんなものもあった気がする。
 あの頃は彼に興味なんてものもなかったから、新しい部下とはいえ適当にあしらえばいいと思って、渡された資料もおざなりに目を通してとっとと棚の奥深くにしまってしまった。
 「はいよ」と、カシアンはジザベルにファイルを突き出す。
 「あんたが今いった資料。多分これで全部。足りなかったら、資料棚の上から三段目の一番左のファイルに入ってる」
 「はあ……」
 「他に用がなければ、失礼します。別の仕事があるんで」
 ジザベルは戸惑いがちに視線を上げた。椅子に腰掛けたままだと、カシアンの方が少し目線が高い。
 「何か?」
 「カシ……あの、じゃあ……家名を教えてください」
 「ファミリー・ネームぅ?」
 あんたって結構律儀なんだな。
 と、カシアンは呆れたように呟いた。
 「いいよ、別に。冗談だから、今まで通りに呼べばいい」
 「でも」
 「別に、俺は気にしないし。あんたのことも今まで通りちゃんと“ドクター”って呼ぶから。安心しなよ」
 尚もジザベルが食い下がると、カシアンは諦めたように嘆息する。
 「ねぇよ。そんなもん、とっくの昔に捨てた」
 これで満足か?
 とでもいうように、カシアンはジザベルを一瞥すると、くるりと踵を返して、ジザベルに背を向け、扉へと向かう。
 「待って」と、ジザベルが呼び止めると、カシアンは怪訝な表情で振り返った。
 「ドクター?」
 「……っと、あの……その……」
 “カシアン”と何度も呼ぼうとしたけれど、それはついに音にはならなかった。今まで何度となく口にしたのに。それどころか、今はまともに彼の顔すらみることができない。
カシアンの小さな袖を強く握ると、ジザベルは俯きがちに呟いた。
 「――……私も、何て呼ばれても気にしませんから」
 ずっと下を向いていたから、カシアンがにぃっと笑ったことをジザベルは知らない。












END




赤い羊~でドクターがMr.カシアンっていってたから、つい……。

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